吾輩は悩むのが趣味である

悩みが尽きない人々に読んでいただきたいのです

流行りには乗っておいた方がいい

今週のお題「もう一度見たいドラマ」

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若い頃は物事を斜に構えて見るタイプだったせいか、話題になっているドラマを観ることが無かった。流行りに乗ると負けた気がするので、敢えて避けていたのだ。

「大衆的なドラマに夢中になるような奴らと俺は違う」

何かを成し遂げた実績が無かったので、何かをしないことで自分のブランディング(差別化)を行っていたのだと思う。


90年代はトレンディードラマの黄金期

90年代がちょうど二十代を過ごしたわけだが、その頃はフジテレビのトレンディードラマの黄金期だったようで、東京ラブストーリーのような恋愛ドラマが社会現象になるような時代であった。

「黄金期だったようで」と書いたように、私は流行りのドラマから距離を置いていたため、リアルな感覚として「月9」やら「東ラブ」やらの盛り上がりが分からない。間接的な情報で何となく知ってはいる、というレベル感であった。年配の方から「終戦直後の闇市は活気があった」と聞くような感じで、「織田裕二」や「鈴木保奈美」がすれ違って大変らしい、と認識してたような感じだ。私にとって、歴史上の話とトレンディードラマは同等に遠い場所の出来事だったのだ。
また、そもそも恋愛ドラマに興味が無いというのも大きな要素だったかもしれない。

丸くなり、流行りのドラマを観るように

90年代後半にもなると恋愛ドラマ以外のジャンルにも名作と呼べる作品が登場するようになる。「踊る大捜査線」もその一つだ。

二十代後半となり、私の考え方も丸くなったのだが、世間の流行りに乗らないスタンスは相変わらずだったので評判のドラマも知らないままである。「踊る大捜査線」も放送終了後に知り、数度目の再放送でやっと観たという状況であった。「王様のレストラン」も再放送、「古畑任三郎」も再放送。何ならアニメの「ヱヴァンゲリヲン」も数年後に初めて知ったくらいだ。

リアルタイムで視てなくても、時間が経過しても名作と呼ばれる作品の面白さは変わらない。そんな意見もあるだろう。また、その通りだとも思う。「踊る大捜査線」は今でも視聴に耐えうるドラマだと思う。

 

ただ、流行りが過ぎてしまったコンテンツにハマるといくつか残念なことが起きる。

・盛り上がりを分かち合える友達がいない
・グッズや関連書籍が売ってない
・なんだかんだで映像の古さが否めない
などなど。


全てのネタバレも済み、世の中の盛り上がりも過ぎ、画面に映るのは微妙に古い風景だったりするわけである。作品の品質が高ければ高いほど取り残された感を感じてしまうのだ。


歴史好きがただの野原となった関ケ原を眺めて「強者どもの夢のあと」を想像するように、数年遅れで名作ドラマを視聴した人間も当時の夢のあとを想像することになるのである。

そういうわけで、中年となった私から言えることは「流行りには乗っておけ」という一言である。

 

 

ご褒美までの4ステップ

今週のお題「自分にご褒美」

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中年の家庭持ちに金銭的な余裕は無い。いわゆる「可処分所得」の額で言うならば、実家暮らしの新卒女子より低いだろう。要するに金なら無いのである。
これだけ景気の悪いと街には金が無いおっさんばかりなわけで、なんだかマジョリティーの一員になれたような安堵の気持ちも沸いてくる。

そのような経済状況なので「ご褒美」と言ってもインスタ女子のように洒落たレストランに行けるはずもなく、会社帰りに発泡酒の一本でも購入するのが関の山である。

日々の発泡酒も「自分へのねぎらい」にはなるが、ご褒美かと問われれば何だか違和感を感じてしまう。あらためて「ご褒美とは何か」と自分自身に問うてみたが、そんなことを考えたこともなかった。この機会にあらためて考える必要がありそうだ。

というわけで例のごとく語意を調べてみた。

 

あらためてご褒美について考える

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ほめて与える金品。褒賞。

褒美には二段階のアクションが必須のようである。作法のようなものか。

①ほめる
②与える

①の作法の後、②で与えるものが褒美と呼ぶことを許されるのだ。
となると、黙って飲む発泡酒は褒美の定義から外れることになる。まずは自分で自分を褒めなければならないのである。寡黙に飲むのはただの飲酒ということだ。

そこまで思考が進んだところで、はたと思い当たることが。

褒めるって何だろう?

漠然と「よくやった」とポジティブな言葉を投げかけれる行為だと思い込んでいたのだが、果たしてそうなのだろうか。ムクムクと疑念が沸いてくる。
こちらも念のために調べておこう。

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人のしたこと・行いをすぐれていると評価して、そのことを言う。

 
人のしたことを評価し、そのことを言う、らしい。
つまり「褒める」という行為は評価者として客観的な評価をくだし、その結果ポジティブな場合のみ言語化して、対象者にその旨を伝えるという意味が含まれているのだ。

なるほど。褒めるために高度なメタ認知スキルが必須となるわけだ。


ご褒美までの4ステップ

「自分へのご褒美」を与えたい場合は、まず自分自身を客観的に評価するところがスタート地点となる。

①自分自身を客観評価
②a ポジティブな場合 ⇒③へ進む
②b ネガティブな場合 ⇒終了
③評価内容の言語化
④自分自身へ自分自身の下した評価を伝える

以上の4ステップをクリアして、その先に初めて「ご褒美」がおぼろげに見えてくるのだ。

何だか自分へご褒美をあげるだけでもなかなかの労力が必要のようだ。ご褒美をあげたことに対し、ご褒美をあげたくなる。

発泡酒が「ねぎらい」から「ご褒美」へ昇格するのはまだまだ時間がかかりそうだ。

今宵も悩みは尽きないのである。



一日の区切りをつける儀式

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ランニングを始めてから4か月が経過した。あんなに嫌だった「走る」という行為が習慣になるとは、自分で自分が信じられない。
特に誰かに指示されたわけでもなく、何か報酬がもらえるわけでもない。取り立ててメリットと呼べるものは何もないのに続いているわけだが、走り始めるにあたっての一応の理由はあったのだ。

2020年は自粛と猛暑で気が滅入る夏を過ごした人も多いだろう。かく言う私も同様であった。摂氏40度近い木造一軒家の中で24時間すごす毎日。仕事を終えて就寝し、翌朝目覚めても同じ空間で同じ作業が続くネバーエンディングストーリーである。

もう無理だ。。


何かしなければメンタルが維持できない。とはいえ出かける先も限られているし、オフィスに行っても誰もいない。
どうすれば気分転換できるのか。。

と、その時に思いついたのがランニングである。
昔、気の迷いで購入したランニングシューズが残っていたし、夏なので半パンとTシャツで何とかなるだろう。走り方は良く分からないが、とにかく気分を切り替えたい。

終わりの無い毎日に、せめて一日ごとの区切りをつけたい!

当時の私の切実な思いがランニングのきっかけであり、その理由は仕事とプライベートの区切りが必要だったことだ。それまでは「通勤」がその機能を果たしていたわけだが、自粛期間中のリモートワーク下では自力で切り替えるほか方法が無かったのである。

通勤に代わる生活の境界線、それが私にとっての夕方のランニングだったのだ。

忘れかけていたあの頃の気持ちを思い出させる記事がこちらである。
www.lifehacker.jp

一日の区切りをつける儀式のような行為。それを上手く言語化できないまま時間が過ぎていたのだが、やっとしっくり来る言葉を見つけることができた。

フェイク通勤。

 

靴の中の小石が取れたようなスッキリ感。
休みの日も走っているが、それはただのランニングである。