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高齢化社会でバスに乗るのが不安だ

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高齢化でアハ体験

自分自身の老化にはなかなか気づけないものだ。見た目は確実に変化しているはずなのだが、毎日鏡で自分の顔を見ているとその微細な変化を認識できない。その変化は「アハ体験」なみの微細さと表現しても差し支えないだろう。眼球自体も老化しているせいか自分の肉眼でその微細な変化を捉えることができていない。

するとどうなるか。
ひさしぶりに会った旧友と「おまえ老けたなー」「おまえこそどこの爺さんかと思った」など互いの老化について驚愕し、自身の変化についても推して知るべしの心境に到達するわけである。

美少年だった友人がサラサラヘアーからフランシスコザビエルのようなヘアスタイルに進化してたりするのである。50代のサラサラヘアーは時の試練に耐えた証なのだ。

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ひさしぶりにバスに乗ったら

閑話休題
さて、所要のため数カ月ぶりにバスに乗ったわけだ。だからこそ変化に気づくこともある。バスの乗客に老人が増えている。地味に増加しているのだ。高齢化という抽象概念を実感する瞬間である。
毎日見ている光景は徐々に変化するため、アハ体験なみに気づくのが難しい。旧友のヘアスタイルと同じだ。
高齢化も徐々に進む。ヘアスタイルと同様に、やはり進行形で実感することは難しい。ある日、唐突に気付くのだ、「社会、老けたなー」と。いつの間にか世界は人生のパイセンに占拠されているのだ。

そうなると難易度が上がるのが座席の選択である。50歳は現役世代では高齢の部類に入るのだろうが、高齢化社会においては相対的に若い部類に入る。白髪&杖のご老人に囲まれては、私のような白髪が申し訳程度に混じっているような人間は若輩者。まだまだ人生の機微を知らないヤングなのだ。満員のバスにリアル高齢者が乗ってきたら、のうのうと座っているわけにはいかない。

リアル高齢者を見分けるのは簡単だ。見た目が若作りでも、乗車の際に高齢者パスをかざしフリーで乗り込むからだ。リアル高齢者であることを確認したならば取るべき行動は一つである。

「どうぞ」

恩きせがましくならないよう、できるだけさりげなく、まるで次のバス停で降りるかのように自然に席を譲るのだ。


高齢化は待ったなし

次回の乗車がいつになるかは未定だが、この高齢化は待ったなしで進行するだろう。バスに乗る高齢者も増加を続けるはずである。何といってもフリーパスなのだ。ということは譲る頻度が上がる。自分以外は全員リアル高齢者という状況もあり得る。ていうか、それがデフォルトになる気がする。つまり、席を譲る以前に自分が座る機会が消滅するのでは?

高齢化社会が不安だ。
バスに乗るのが不安だ。
今日も不安でたまらない。