顔出しが評価につながる時代が来るかもしれない
リモートワークにもすっかり慣れ、逆に毎日出勤してた頃の気持ちが分からなくなってきた。私の肉体は1時間程度の物理的な移動にも耐えられなくなったらしい。たまに出社した日は異様な疲労感に襲われるほどである。
もう通常出勤には戻れないし、戻りたくない。一旦、身体が在宅勤務に最適化されてしまうと通勤時の肉体的負荷の高さを実感するようになる。糖質制限ダイエットをしている人が、少量の人工甘味料でも違和感を感じると聞いたことがある。それと似ているのかもしれない。
ここまで出社という制度に対して違和感を唱えていると、まるでディスっているかのような印象を与えている気もするが、決して偏ったリモートワーク至上主義者ではない。リアルオフィスにもいい点はあった。
それは話している相手の顔が見えることである。
Zoomが世界を変えた
全員リモートワークだと、当たり前だが全員がモニターの中に存在するわけである。お互いのPC環境はZoomでつながっている状態だ。
コロナ禍以降のビジネスマンには言うまでもないが、ZoomとはPCやスマホアプリなどを使って、簡単にテレビ会議ができるとweb会議ツールである。
優れたユーザビリティで初めての人にも使いやすい。酔ってても操作できるほどの使いやすさなので、web飲み会なる娯楽が流行ったほどだ。しかも無料版もある。だんだんZoom社の社員のような話っぷりになってきたが、残念ながら私とZoom社は一切関係がない。
さて、長所ばかりを語って来たが、光ある場所には必ず影がある。Zoomももちろん例外ではない。
顔を見せない人々
リアルオフィスでは覆面で勤務するような社員は存在しなかった。もしいたら、それはそれで面白かったと思う。自由な社風を感じられたのではないだろうか。
しかし、Zoom上には「画面オフの覆面社員」が存在するのだ。それもかなりの数である。
女性社員が「化粧してないから」という理由は理解できなくもない。会議のためだけに身支度するのは非合理的だと考えるのは分かる。そういう考え方もあるだろう。女性はまだ分かる。だが、なぜに男性陣にも「画面オフ」がいるのだ。
ちなみに私は顔出しがデフォルトである。顔を出さずに会話するのは何だか失礼な気がするし、隠すほど恥じらう年齢でもない。
「顔出し」と「画面オフ」がZoomでMTGするとどうなるかというと、「顔出し」は名前だけの黒い画面に話しかけるという「ゼーレ会議」状態になるのだ。
何だか詰められている気分になる。
顔が見えない相手に話し続けるのはなかなか辛いものがある。表情が見えないから一言一言の反応をうかがいながらトークを広げることができない。画面オフの向こうにほんとうに座っているのか、もしや死んでいるのでは?などと疑ってしまうこともある。
「やりにくいので画面オンにしてほしい」と正直にお願いしても頑なに拒否されると、「そこまでオレに見られたくない何かがあるのか」と疑心暗鬼になってしまう。
顔出しが常識だと思っている人間にとって、画面オフ主義者はミステリアス過ぎて不安になるのだ。
Zoomが評価に影響する時代が来るのでは?
近年、人事評価に360度評価を導入している企業が増えていると聞く。
私も導入していた会社での勤務経験があるが、コミュニケーション面の印象は影響する。一緒に働きたい人間の評価を上げる傾向にあるのは、人間の自然な感情だろう。
360度評価では、上司だけでなく同僚や部下、他部署の社員などによって多面的に評価されるものです。1人の従業員が仕事上のさまざまなフェーズ(360度)で関わる人たちです。取引先や顧客の声も評価として抽出されることもあります。
というわけでリモート会議の際は「画面オンで顔出し」にしたほうが得るものがある、というライフハックである。
テクノロジーの発達は、既存の悩みを解決する一方で新しい悩みを生み出す。
というわけで本日も悩みはつきないのであった。
とかくこの世は悩みだらけである。
世の中には思ってたより暇な人が多い気がする
アメリカはデモが派手
揉めに揉めたアメリカ大統領選挙だったが、どうやらバイデンの勝利で決着がつきそうである。トランプとバイデンの子供っぽい舌戦やら、郵便投票の不正疑惑やら、投票率100%超えのエリアがあるやらで、新鮮な驚きがいっぱいの選挙であった。自由の国にもほどがある。
いろいろ発見があったのだが、地味に気になったのがデモ参加者の多さだ。画面いっぱいに映っている参加者は1000人以上いるように見える。質的にも一般の民間人が多数のようだ。特定組織のメンバーだけでこれだけの人数を集めるのは難しいと思われるので、多くの参加者は一般人なのだと推測できる。
ふと、平日に長時間のデモに参加してる人々がけっこう存在する事実に気づいた。デモも一回や二回ではない。何度となく実施されていると思われるが、報道される映像は毎回イベントのような賑わいだ。
なぜだ…。
私はいつものように悩み始めた。
悩むのが趣味なのだ。
そして一つの仮説にたどり着いたのだ。
この人たちはけっこう暇なのかもしれない。
いや、普通に働いてたら平日のデモに参加してる余裕はないだろう。有給休暇を取ったのか?失業者が多いのか?
うーん、参加者の詳細は想像の域を超えないが、暇な人が多いことは事実だろう。
平日の朝から大行列
やはりアメリカ人だからフリーダムなのかとも思ったが、日本でも似た風景があったことを思い出した。
パチンコ屋の前には平日の朝から客が並ぶ。
競馬の場外馬券場に年配男性陣の群れができる。
人間が集まっている点は同じだが、日本のそれは静かである。やはり国民性だろうか。
私だけではなかった
私は平日に「暇」だと罪悪感を感じる。
皆が忙しく働いている時に暇だと、何だか仕事をさぼっている気持ちになるからだ。同じ理由で平日の有給休暇も後ろめたさが拭えない。
しかし冷静に考えてみたら皆が皆、一日中作業しているわけでもなく適度に休憩していたり、待機の時間ができたりして「暇」ができているはずである。昼間のマクドナルドでスーツ姿営業マンがスマホをいじっているのもお馴染みの風景だ。
意外とみんな暇なのかも。
誰でも暇な時間はある。「暇」は個人の姿勢とは関係なく、否応なしに生まれるものだ。ある意味で自然の摂理とも言えよう。それに逆らうなど台風を止めようとする行為に等しい。人間には不可能である。
つまり、「暇」は自然現象なのだ。受け入れるのが正しい人間の姿ではないだろうか。
「暇」を埋めるために必要のない仕事を作り、安心感を得ることがある。
しかし必要の無い業務が生産性を下げるのだ。
正しく暇を受け入れることが生産性向上につながるのである。
ということで今後は堂々と「暇」を受け入れようと思う。
とはいえ、平日の有給休暇は会社からの連絡が気になって落ち着かないのだろう。
スマホ通知を切る勇気が欲しい…。
というわけで本日も悩みはつきないのであった。
とかくこの世は悩みだらけである。
テレ東「午後のロードショー」は最強である
今週のお題「最近見た映画」
金なら無い
さて問題である。下の式の( )内を埋めてほしい。
コロナ禍 + リモートワーク + 小遣い制のサラリーマン =( )
いろいろな回答があるとは思うが、「最近見た映画」という前提であれば答えは一つしかない。
( 午後のロードショー )である。
今年度前半を振り返れば、コロナで施設は閉じているし、勤務形態はリモートワークに移行した。社会状況は大きく変わった。そして私の小遣いは変わらない。
つまり映画館に行ける状況ではなかった、ということだ。
自宅で気軽に映画を見たい。今の世なら「Netflix」や「Amazonプライム・ビデオ」がある。コンテンツは無限だ。
しかし問題がある。視聴するには金が必要なのだ。
社会状況は大きく変わったが、私の可処分所得は変わらない。もともと映画鑑賞の趣味も無い。つまり映画館に通う金銭的な余裕は無いのである。
そんな男の最適解。それが
テレ東「午後のロードショー」
なのだ。
午後のロードショーとは
我らがWikipediaによる説明を参照しよう。
『午後のロードショー』(ごごのロードショー)は、テレビ東京の関東ローカル番組で、月 - 金曜日の13:35 - 15:40(JST、以下略)の番組枠「午後のエンターテインメント」(後述)内で放送されている映画番組である。
簡単にまとめると、平日の昼下がりに毎日放映してる吹替の映画番組である。地上波テレビの映画番組が次々と終了していくなか、今でも変わらぬ姿で放送を続けている業界のリーディング番組である。
例えるならば北海道の過疎地で大手コンビニが撤退していく中、採算度外視・地域貢献のため経営を続ける「セイコーマート(セコマ)」と言えよう。
地上波映画番組界というメディアの過疎地においえて、私のような男のために採算度外視で貢献してくれるセコマのような存在。
それが「午後のロードショー」なのだ。
午後のロードショーのメリット三選
地域限定の例えで分かりづらくなってしまったので、具体的なメリットを挙げていきたいと思う。ちなみに私は北海道の人間ではない。
- 地上波なのでもちろん視聴無料
- ラインナップに一昔前の話題作がけっこう入っている
- 字幕ではなく吹き替えである
一つづつ見て行こう。
1.視聴無料
言うまでもなく、日本ではNHK以外の民放地上波は無料で視聴できる。東京エリアの民放であるテレビ東京のコンテンツも無料である。
ありがとうテレビ東京。
2.一昔前の話題作
「羊たちの沈黙」「スピード」「ダイハード」。令和のヤングにはピンと来ないかもしれないが、今の40代以上にはグッと来る映画タイトルだ。リアルタイムで映画館に並んでまで観た平成の話題作である。
「1990年代は最近」というのが40代以上の感覚であろう。人間は年を取るほど時間を短く感じるようになる。特に青春時代を過ごした時期の記憶は鮮明なままであり、なかなか劣化しないのである。
映画に対する感覚も同様で、1990年代の映画が無料となると、最近見たばかりの映画が無料で見られる感覚になり、ちょっと「お得な気分」でハッピーになれるのだ。
ありがとうテレビ東京。
3.吹き替え
「洋画は字幕派」は吹き替えを馬鹿にする風潮があるが、私は強くアンチテーゼを唱えたい。
Wikipediaを読むと字幕で伝えられる情報量は「一度の20文字」が上限。細かい台詞は字幕に出さないこともあり、けっこう意訳しているとのこと。
外国語音声の劇場用映画の場合、通常は台詞1秒に対して4文字以内、一度に表示される字幕は20文字までが基本。1行あたりの文字数は、かつては13字だったが現在では10字(例外もある)。簡単な挨拶程度のセリフの場合、字幕に出さないことが多い。[要出典]なお、字幕では簡潔さがモットーとされるため、逐語訳にこだわることなく意訳を積極的に取り入れる必要があり、必ずしも原語の台詞に忠実な翻訳がなされないこともある。
情報量という観点から見ると吹き替えのほうが映画を深く体験できる気がする。
そして、何といっても私の世代は「Mr.Boo!ミスター・ブー」という強烈な原体験も持つ人間が多い。広川太一郎の吹き替えでなければ映画の魅力は半減していただろう。実際に字幕版を見た時のガッカリ感はすごかった。
『Mr.Boo!ミスター・ブー』(原題:半斤八两、英題:The Private Eyes)は、ホイ兄弟演じる私立探偵のドタバタ活躍を描く、1976年のコメディ香港映画。
ノスタルジーも相まって、一昔前の映画を吹き替えで見ると田舎の婆ちゃんの家にいるような安心感を感じるのである。
ありがとうテレビ東京。
肝心の吹き替え版がない…
ここまで吹き替えの予算を主張していて大変申し訳ないのだが、「Mr.Boo!ミスター・ブー」は字幕版しか販売していないようだ。
言い訳のように聞こえるかもしれないが、希少価値という観点で「吹き替え版」は価値があるとも言える。
さんざん吹き替え版を勧めておいて、貼ったリンクは字幕版という醜態…
また新たな悩みの種が生まれてしまった。
というわけで本日も悩みはつきないのであった。
とかくこの世は悩みだらけである。
ありがとうテレビ東京。